中国の医学史 北京堂鍼灸京都

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中国の医学史

石器時代(約200万年前)~三国時代頃まで

京都 鍼灸院鍼灸の起源は石器時代に始まる。最初の医療器具には砭石(へんせき)がある。これは鋭利な石器で、膿を破ってだすのに使われた。これらが後に骨鍼、竹鍼、陶器の破片で作った陶鍼などになる。また、新石器時代の遺跡からは骨を加工した鍼も出土している。
紀元前1500年頃に成立した商(殷)の都からは甲骨文(亀の甲羅や動物の骨に刻まれた文字)のが出土したが、そこには、頭痛、耳病、眼病、鼻病、足病などの病名や腹部の寄生虫を表すとされる甲骨文字などが記載されている。戦国時代(紀元前400~200年頃)になると、鉄の鍼がつくられ、その後に金鍼、銀鍼もできた。

灸は最初は樹の枝などを燃料にして、体の一部を焼いたりあぶったりして、病気を治療してたものであるが、春秋戦国時代になるとよもぎが主な燃料となった(艾灸)。古代ではお灸の方法は、今のせんねん灸のような間接灸ではなく、皮膚に直接のせて火をつける直接灸であった。鍼と灸を合わせて刺灸法と呼ぶが、他には吸玉があり、古代には動物の角を用いていたことから角法とよばれ、現代のガラス罐に変化していく。古代中国の文化圏は、地理的に、北方から順に、黄河文化圏・揚子江文化圏・江南文化圏に分けることができる。黄河文化圏は人体の特定の場所には経穴、いわばツボという反応点があり、これを刺激するとこそこに鍼のひびきという得意な反応が起こることが知られた。こうして経穴の間を連絡する道筋としての経絡が発見された。経絡は気血を運行させ、人体を滋養する働きをもつものである。
春秋戦国時代の黄河文化圏の自然観は大宇宙と小宇宙との対比を解く天人合一思想であり、陰陽説という万物を相反する性質の二要素で解釈する思想に基礎を置き、ありとあらゆる事象を木、火、土、金、水の相生と相克によるバランスで解き明かす五行説が誕生した。 人体で言えば、男は陽で女は陰、背中は陽、腹は陰、皮膚は陽、皮内は陰に属す。五臓(肝・心・脾・肺・腎)は陰に属し、六腑(胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦)は陽である。このように、あらゆる事物は陰陽の支配を受けて、相対的にバランスを保って調和している。

こうした自然観をもとに戦国時代から漢にかけて中医学理論の体系化が進められて「黄帝内経」が成立した。「黄帝内経」は、黄河文化圏の祖である伝説上の聖王黄帝とその臣下の名医との問答形式で書かれていて、病の原因と病理を論じ、これに基づき治療を施すことを述べた中医学の代表的文献である。黄帝内経の現存のテキストは「素問」「霊枢」「太祖」「明堂」から成立しており、「霊枢」は針経と称したように、古代九鍼の説明や鍼灸治療の為の診断学や手技などについて書かれている。「素問」は、生理・病態・養生の事や、薬物治療、鍼灸治療、導引、按蹻について記載されている。

一方、揚子江文化圏には、自然の産物を利用した薬物療法が発達した。揚子江文化圏からは中国最古の薬学書「神農本草経」が発見されている。「神農本草経」には365種の薬物が記載されていて、毒性の有無、強さ、栄養薬か治療薬かによって、上・中・下の3品に分類されている。尚、成立は後漢(1~2世紀)頃と推定され、約5世紀後の唐代に失われたものの、その内容は歴代の本草書に受け継がれている。

 江南文化圏の医術は殷代の湯液の系統に属している。薬物を用いるが、揚子江文化圏とは違い、簡単に入手できる薬物を組み合わせて効果があるものに発展していった。江南文化圏の医学は漢代にほぼ完成した。これらを纏め上げたのが、後漢の張仲景が著した「傷寒雑病論」である。「傷寒雑病論」は戦乱で消失したが、「傷寒論」と「金匱要略」にテキストが現存している。傷寒とは外邪が侵入した外感病の一つを指す。張仲景は「素問」の「熱論」を基礎にして、太陽・陽明・少陽の三陽と太陰・厥陰・少陰の三陰とし、三陽病の多くは熱・実に属し、三陰病の多くは寒・虚に属すとした。また、陰陽の別を総綱とし、症候を表裏・寒熱・虚実に類別して、後の八綱弁証の基礎を築いた。

古代から3世紀までの著明な医師には扁鵲(へんじゃく)・淳于意(じゅんうい)・華佗(かだ)があげられる。扁鵲は紀元前5世紀頃の名医で望・聞・問・切の四診を重視し、砭石・鍼灸・湯液・手術等多種の治療法を用いた。「史記」には死んだとされる太子を扁鵲が仮死状態であると診断し、鍼を初めとする治療法を駆使して蘇生させるというエピソードがある。戦国時代には、病邪が体表や血脈にとどまるならば、鍼や瀉血をしたり患部を温めたり(古くは熱熨法とも呼んだ)し、また内蔵を犯した場合は薬物療法と栄養補給で対処するという考え方が主流になっていた。淳于意は全巻の名医で倉公ともいい、望色と切脈を重視した。「史記」には淳于意が治療にあたった症例集が記載されており、氏名・職業・住所・病理・辨証治療や予後について書かれており、その中には消化器疾患がおおく瀉下剤が用いられた。華佗は後漢末期の名医で特に外科に優れ「後漢書」には麻沸散という麻酔薬を用いて開腹手術を行ったという記載がある。華佗はまた虎・鹿・熊・猿・鳥を模した五禽戯(ごきんのぎ)という体操をあみ出した。また魏の曹操の持病の頭痛の治療にあたる。頭痛は鍼治療で止めたが、華佗は手術が必要だと曹操に伝えた。曹操は自分の命を狙うものと邪推して、華佗を投獄してついには殺してしまった。

皇甫謐(こうほひつ)は「黄帝内経」の「素問」「霊枢」「明堂孔穴針灸治要」の3部に基づき、中国で始めての鍼灸学の専門書『黄帝三部針灸経』を著す。本書は甲乙丙丁の十によって巻数が分かれているので後に『鍼灸甲乙経』と呼ばれている。『甲乙経』は『内経』を基礎にしながらも、『内経』や『傷寒雑病論』に見られないもの、特に婦人科や小児科の疾患が多く紹介されている。また例えば『鍼灸甲乙経・巻11』には「脾虚の下痢には三陰交を補い、さらに陰陵泉を補い置鍼して温かくなれば治まる」といった治療法や刺鍼補瀉や気が至った時の感覚も、以前の古典の記述より詳細に記載されている。

晋代頃~唐代

京都 鍼 腰痛この時期には、265年に晋が一時的に全国統一を果たした後、南北朝の動乱を経て隋・唐の統一国家が形成され宋・元・明・清へとつながる。

3世紀頃、王叔和(おうしゅくか)は前漢の淳于意の脈診法に基づき、24の脈状を区別し、左右の撓骨動脈の拍動部に示指・中指・薬指の3本の指頭をあてて診断する脈診法の体系を築いた。それが中医学最古の診断学の書「脈経」である。また王叔和は、それまでは江南の医家の秘本であった「傷寒論」の整理・補正を行い後世に伝えられるようになった。 葛洪(かつこう283年~364年)の「肘後備急方」は伝染病に関する医書で天然痘を記載した中国最古の記録とされる。また、ツツガムシ病にあたる病気の疫学、臨床症状と予後・予防について、あるいは狂犬病の治療法についての記載がある。5世紀末の龚慶宣(きょうけいせん)の「劉涓子鬼遺方」(りゅうけんしきいほう)は現存する最古の中医学外科書で、止血・鎮痛・解毒などの外傷治療法が書かれている。

 6世紀末から10世紀の初めにおよぶ隋・唐文化は医学上も大きな成果をあげた。シルクロード経由でインドや西域医学との交流がみられた。隋代の代表的医書には巣元方らが編集した「諸病源候論」50巻がある。これは病理診断の書で、1720あまりの証候列挙され各科の疾病の原因・病理・症状が説明されている。唐では医療制度が確立して、医師の階級と職制が定められ医師の教育と国家試験に着いても規定ができた。この当の制度は奈良時代の日本にも取り入れられた。唐の代表的医書は孫思邈(そんしばく)の『備急千金要方・巻三十』で内容は臨床の各科から食事療法から衛生まで多岐に渡った。更に孫は晩年に『傷寒論』を参考に『千金要方』に内容を加味した『千金翼方・巻三十』を著した。一方、848年には見素女(けんそじょ)の著した「五臓六腑図」は現存最古の解剖書とされているが、内蔵に宿る神々を表現した道教色が強い図であり、現代の解剖書とは異なる。針灸の専科が独立して、鍼灸学の医書が多数出版された。制度上、針師の官名も出現した。

 また晋唐時代は灸法が重視され始めそれが宋代にまで続いた。『南史・斉本紀』によるとある人が北方から灸法を学び、治療してみると効果があり手軽で誰にでも覚えられる方法なので、禁じる法令を出しても治まらず「聖火」と呼ばれた。先述した葛洪は灸法の先駆者の一人であり『肘後備急方』の中で109条の医方のうち、灸法94条に達しニンニク灸や隔塩灸等を創設した。更に前述した『備急千金要方・巻三十』、『千金翼方・巻三十』には灸に関して更に多くの記載があり『内経』から『鍼灸甲乙経』までの鍼を重視して灸を軽視する伝統に逆らい、灸が鍼に取って代わるようになった

宋代

京都 鍼灸院宋代(960~1279)の中医学は、王朝が儒教を範としたためもあり国家事業の要素が強い医学となった。鍼の治療法も北宋の皇帝三代は医学振興に力を入れ「難経」「素問」「傷寒論」「金匱要略」「鍼灸甲乙経」「脈経」等を校訂刊行した。
解剖に関しては、古くは「黄帝内経・霊枢」骨度篇に解剖の文字がみられ、「漢書」には王莽が医官に生体解剖を命じ、その知見を元に青銅製の標準人体模型を作らせたという。宋代にはこの模型に経穴をつけて「銅人」として教育や国家試験に採用された。宋に始まった、銅人の慣習は金・元・明へと伝えられ、中国中世の医学教育に重要な役割を果たした。

 一方、晋唐以降に流行した灸法は宋代になっても続いていた。長きに渡る臨床の中で理論面や実践面でも晋唐時代よりも進歩しており、適応症に正当な評価が加えられた。そして『備急灸法』には「火気が郵送するように感じ、全身を一周する。ムシムシと熱い。再び見ると瘡の腫れはすでに5~6分ひいている、奇効や異効とはこうしたものを言う」といった記載があったり、宋代の鍼灸の名医である王執中は『鍼灸資生経・第四』において「ある日、心窩部が激しく痛むので、すぐに中脘に灸を数壮据える。下腹の両側にあった冷気が下から上に昇って灸のところまで来て散る。これは灸の効果である。」と述べており灸感の伝達が治療効果を高めることを、体験によって実証した。これが次の金元時代に「気が病巣部に至る」方法を生み出す上で影響を与えることになる。

 しかし見識ある医者は灸法の乱用によって弊害が起こっていることも知った。『鍼灸資生経』では「大きい艾炷で繰り返したくさん灸を据えると、その人は長い間心力がなくなる」と指摘し、「今の人は鍼を知っていれば灸を知らず、灸を知っていれば鍼を知らない」と当時の傾向を批判している。南宋時代になると『備急灸方』には「富貴で豪奢な人は、ややもすれば痛みを恐れ艾と聞くと怒って帰る」と官僚や金持ちに受け入れられなくなったことを記載しており、宋代では灸法が依然主導的な地位にあったものの鍼治療が再び注目されだした。

 鍼の方は絶えず発展を遂げその処方が累積されていった。王執中が『鍼灸資生経で』宋代以前の鍼灸処方を集め、病症によって分類しただけでなく、王執中自身や彼の親類による臨床経験や突然足が腫れる症状に対して火鍼で刺絡出血したり、急性腰痛に対しては火鍼を広範囲に繰り返し叩刺する梅花鍼に似た治療で効果があったことを記載している。

金・元代

京都 鍼灸院金・元時代は中国の医学史上重要な時期であった。この時代は群星きらめく百家争鳴の時代であったが、主な学派は二つあった。一つは何若愚と竇漢卿を代表する毫鍼の鍼法を重視した派と、もう一つは河間と易水の学派で、刺血療法と灸を提唱した。

 何若愚は『霊枢・衛気行』に「注意深く気の所在を伺って、それに刺鍼する。これを逢時という」とあり、この文を気血が経脈を循環して経穴にやってくる時刻と解釈し、気血の流注に基づいて刺鍼治療をすれば効果があると考えて子午流注鍼法をあみだして『子午流注鍼法』を編纂した。また竇漢卿は「鍼経指南」において現在の八脈交会穴配穴法にあたる、八穴で四対の組み合わせを形成する交経八会穴法を記載した。更に刺鍼十四法を創始し、寒熱の複合補瀉法と「気を至らせる方法」を開発した。これらは鍼尖、呼吸、捻転、提挿などの手法を組み合わせて作られており気を触発して病巣部に到達させそのうえで病気の虚実に基づいて寒熱補瀉を施すもので、経気の「上下をつなげば、その苦痛はすぐに無くなる」と『鍼経指南』にあるが、これは治療効果を高めるには特に重要で、『鍼経摘英集』には多くの急性病治療方法の下に「気が病のところに至った」時の鍼感が記してあり、例えば、『鍼経摘英集・治病直刺訣』には「突然に心痛が起こって我慢出来ないときは、任脈の上脘を刺す。胸骨柄の下三寸・・・刺鍼して鍼下に気が行くと、患者は玉子が転がって腹の中に入る感じがする」とあり竇漢卿と同時代の治療家も「気を病のところに至らせる」手法の効果を認めて使っている。

 劉河門は四肢の特定の経穴から刺血することにより欝熱を瀉して治療できると主張した。例えば『素問病機気宜保命集・巻下』に「熱が際限なく上がって止まらないときは陥骨穴を刺して出血させる」、『大頻熱、昼夜下がらず。十指の間を刺して出血させる。これを八関大刺と言う』と記載しているが、これは刺血清熱法の一つである。八関の位置は後世では八邪穴と考えられている。また瀉血をすると気の流れに効果があり塞がった部分が通じると考えられ、李東垣と朱丹渓は瀉血は血を活かして滞りを無くすと唱えている。例えばある少年は、慢性の下痢に下痢止めを使って効果があったが、痛風となって痛がるようになった。朱丹渓は診察をして瘀血が経絡にとどまっているのが原因だと診て四物湯を飲ませた後「委中を刺すと黒血が三合ほどでて片付いた」と『古今医案按』にある。

 灸に関しては張仲景が三陰には灸がよいという原則を立てたために後世に深く影響を残した。そのために灸治療には陰症、寒症、虚症が多い。金元時代にはその点も開拓されて熱症を灸で治療できるとする理論が現れた。例えば、劉河問は灸は熱を瀉して急性発熱の治療すると主張して灸に熱を引っ張らせて下に降ろす方法で『素問病機気宜保命集・巻中』には「熱厥により心痛するものは、体が熱くて足は寒く、痛みがひどくて煩躁して吐き、額に汗をかくので熱があるのが判る。洪大脈である。太谿と崑崙に灸を据え、表裏をともに瀉す。これは熱病でも汗が出ないために熱を引いて下の足に導く」とある。次に灸で督脈を瀉す。督脈は諸陽を統括しているので、督脈を瀉すのは陽熱を瀉すことになる。例えば下痢について「喉が乾いて飲むものは、熱が横隔膜から上にある。水を沢山飲めば横隔膜の下の胃に入るだが胃経には熱が無いため水によって障害を受ける。これを水恣と呼ぶ。米穀が一時で排泄するからである。この証には大椎に灸を三~五壮すればすぐに治る。督脈を瀉すからである」と『素問病機気宜保命集・巻中』に書かれている。更に陰が尽きて陽が危ない危篤状態のとき、金元時代の医者は灸で脾土を温めて補い、元陰元陽を助けると主張した。例えば、羅天益は瘧痢(下痢の夏バテ)が続き、脈が浮いて糸のように細く、手足に冷感があり嘔吐が止まらない患者に対してまず中脘に灸を据えて脾を補い、次に気海に灸を据えて腎(元)を助ける方法で効果をあげた。これには異論もあり、宋代の許叔微は、灸は腎陽を温めて治療をすると言い、竇材は脾腎を温補すると言い、羅天益は脾に益し元を培うと言う。どれも違いはあるが互いにつながりあいながら完全な理論に近づいている。

 上記の事柄から金元時代は鍼、灸共に新天地を切り開き、中でも複合補瀉の出現は明代で各種の手法を生み出すことにつながった。鍼法が深く研究されて、刺鍼操作が広く用いられるにつれて鍼の地位も徐々に高まり灸法よりも上位になっていった。


明代・清代

鍼灸院この時代は鍼灸処方も円熟期を迎え、『鍼灸逢源』に162首、『鍼灸聚英』に59首、『鍼灸全生』に407首、『鍼灸大成』に249首と鍼灸処方の記載が多数されるようになった。特に明代は中国鍼灸史上の最盛期である。その為に鍼灸治療の適応症が大幅に増加、更に治療効果が高まると明代の治療家は鍼灸に対する辨証施治法則の探求とまとめに入り、それには楊継州と高武などが貢献した。

 例えば『鍼灸大成・巻九』に「心窩部痛には九種類ある。虫や食痛によるもの。心痺の冷痛で起こるもの。陰陽が昇降しないもの。怒気が心を衝いたもの」というように分類しており、また頭痛を『鍼灸聚英・巻二』では「風、風熱、痰湿、寒、真頭痛」に分けている。また『鍼灸大成・巻九』では中風で人事不省となった、患者の人中穴などに刺鍼しても効果が無かったケースを分析し、「鍼の力が及ばない、補瀉が不明、気血が錯乱している。または抜鍼が速すぎた。それが原因で効果が無かった」と結論付けて刺鍼操作について重きを置く記載がある。

 明代は特に刺鍼操作研究の全盛期となった。『金鍼賦』には、当時流行していた各種の操作方法を鍼灸歌賦(暗記しやすいように歌や漢詩の五言絶句のようにまとめたもの)に記されている。「気を患部に至らせる」操作も明代の医者は大変重視した。楊継州も『鍼灸大成・巻四』の中で「遠隔穴で離れた場所を治療するときは必ず病巣部に到達させなければならない」と言っている。竇漢卿の『鍼経指南』に基づき、更に「気を病の所に至らせる」方法と補瀉を融合させて、ほぼ完全な操作とした。こうした操作を正確に行えば治療効果は高まる。例えば『鍼灸聚英・巻四下』の『梓岐風谷飛走気撮要金歌賦』には「気血を走らせ、あっという間に全身を循環させ、上下をつなぎ、寒なら温め、熱があれば冷やし、痛めば止め、腫れを引かせる。水門を開いて水がほとばしるように、すぐに効果が現れる」とある。

 時間刺鍼法は明代で大きく発達した。徐鳳は『徐氏子午流注逐日按時定穴歌』を作った。この歌は子午流注納甲法を使う拠り所となり鍼灸界では大いに普及した。しかし明代の治療家は子午流注を急病に使う場合は、症状に基づいて臨機応変に使わなくてはならず、それに捕らわれてはいけないと言っている。

 灸法は明代には鍼法ほどつかわれなくなったが、一定の進展があり『類経図翼』のように灸治療専門の部門を設けた専門書も現れた。明代李梃は『医学入門・巻二 灸法』において「虚では灸をすえるが、それは火気が元陽を助けるからだある。実では灸をすえるが、それは実邪が火気によって発散するからである。寒では灸をすえるが、それは気を温めて回復させるからだある。熱では灸をすえるがそれは欝熱の気を引っ張って外に発散させ、乾燥させるからである」と今まであまりまとめられてこなかった灸が体に作用するメカニズムを述べている。また明代以前は直接灸と隔物灸だけだったが明代になると棒灸が出現した。棒灸は温度や施灸時間がコントロールしやすいので現在も使われている。明代の棒灸の多くは薬物を混ぜた薬条灸で、太乙鍼とか雷火鍼と呼ばれた。灸の壮数に関しては張景岳は『類経図翼・巻十一』で「灸では火気が毒の部分まで到達しなければならない。壮数に捕らわれてはならない」、もし「前後が互いにつながれば、最も速効性がある」として新しい考え方をしている。ここでは灸の壮数を組み合わせて「気が病の所に至る」事が実践されているのがよくわかる。

そして清代になると鍼灸の適応症が、いくらか増えて歴代の記載では不治であったものが、治療法改善されて治るようになってきた。例えば『鍼灸逢源・巻五』の疔瘡走黄(発熱を伴うオデキ)治療は「毒気が内攻し、黄が広がって止まらず、瘡は必ず崩れて陥没する。経を探り、芯がまっすぐ立っていれば中心である。すぐに刺鍼して悪血を出し、刺鍼した部位に艾で灸を三壮すえて毒を散らす」とある。また鍼法灸法のバリエーションも幾つか増えた。隔物灸でも清代はパラフィン灸、豆鼓餅灸、根切り虫(コガネムシの幼虫)灸などが追加され、『串雅外編』には民間の玉子灸(玉子の白身で腫毒を覆い、その上に艾で灸をすえる)、碗灸なども記載されている。

 明・清時代の鍼灸処方は従来の少数穴治療ではなく3穴以上、特に3~7穴使用しているものが多くなり、鍼灸処方の形式や構成における基本規則が確立されてきた。更に、この時代は前時代の治療方法を引き継ぎつつも、新しい治療法も広がり、大量の処方が出現した。局部配穴、近隣配穴、循経配穴、上下配穴、前後配穴等、様々な配穴法を組み合わせるようになった。
湯液に関しては李時珍は「本草綱目」を完成させた。「本草綱目」は古典の形式と神仙系の医学の影響を受けた三品分類をとらず独自の立場で自然分類を試みたもので、16部の大綱のもとに細分類し、1892種の動植物から鉱物にわたる薬物を記載がなされており、中国薬学において欠くことのできない文献となっている。


現代

京都 鍼灸院清朝末期から中華人民共和国の成立までの時代に本格的に近代西洋医学が中国に伝播していった。これに伴い先進的な医家の中には、西洋医学を研究して中西医学の交流をはかる者もいた。初期の代表的な人物が唐容川(とうようせん)で、西洋医学の解剖生理学によって、中医学理論を証明しようとした。20世紀の初めにはこうした中西交流派の医家が増加し、中薬に西洋薬も併用されるようになった。その後紆余曲折を経て、中華人民共和国が成立した後、衛生省は中医と西洋医学を結合させるという医療行政の指導理念を打ち出した。中西医結合とは個人的にも、体系的にも結合を図るものであり、お互いの長所を生かして短所を排除するというものである。
手術前や手術中の刺鍼によって麻酔効果をもたらす針麻酔は中西医結合の代表的な成果である。またこの時に初めて伝統的ものは個人や家伝の経験の集大成になりがちだった鍼灸処方が再現性があり、安定した治療効果を得られる様に処方のスタンダード化がなされた。 また1950年以降、治療法も多様化しつつあり、毫鍼と艾灸だけではなくツボに薬液を注射する穴位注射(水鍼)、通電刺激する電気鍼、レーザー鍼や、マイクロ波を照射する等、日増しに増加。更に治療部位も体穴以外にも耳穴や眼穴、手穴、鼻穴、口穴へと広がりを見せた。1972年からの研究で脳血管疾患に対し石学敏教授が中風についての「竅閉神匿」という病機説を提唱して醒脳開竅刺鍼法を創案し、同じく1970年代には大脳皮質の機能を頭皮に投影させた頭皮上の投射区に刺鍼する頭鍼療法も開発された。更にその刺法に基づいた「頭鍼穴名国際標準化法案」が1989年11月には世界保健機構が開いた国際標準鍼灸穴名科学組会議で正式に通過し世界の鍼灸界に推薦された。
これらによって適応症は更に広がり、結果多人数のグループと、漢方薬や医薬品を使って薬物治療をした対照群を作り比較対照観察が行われた。鍼灸治療が各種の治療法でどのような位置をを占めるのかを知るためである。このように比較的信頼のおける客観的治癒基準を設けて、厳密に鍼灸治療の効果を確定した。また鍼灸治療のメカニズムについて古人も「気を調える、神を治す」などの見解を示したが、漠然とした意味に終わった。(中医学の気とは経脈の気、神は失神したなどという時の意識の意味)中華人民共和国成立以降はあらゆる分野の観点から鍼灸治療治効メカニズムの研究は行われている。


参考文献 
1)中川米造監修(2005)『医療概論』医歯薬出版 pp.36-47
2)張仁著・淺野周訳(1996)『急病の鍼灸治療』緑書房pp.14-30
3)張仁著・田久和義隆訳(2010)『すぐに役立つ鍼灸処方162選』源草社 pp.21-36
4)淺野周著(2011)『頭皮鍼治療のすべて』三和書籍pp.2
5)今村隆神鍼著(2009)『中国鍼灸秘訣集』たにぐち書店pp3-4
6)石学敏著・兵頭明監訳(1991)『写真でみる脳血管障害の針灸治療』東洋学術出版社pp10

北京堂鍼灸京都

京都市西京区桂野里町32-12
阪急京都線桂駅東口から徒歩2分の鍼灸院
鍼療時間 9:00~22:00 (月曜は15:00~22:00)
※19時以降の鍼療は当日19時までにご連絡下さい。
電話番号 075-202-4098(予約制)  
休鍼日:木曜日  土日祝は鍼療しています。

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